「自分を他人と比べて、嫉妬してしまいがちな人」へ。【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵 第14回
‘カインは主に言った。 「わたしの罪は重すぎて負いきれません。 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。 カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。’(創世記 4:13-16)
弟を殺した兄は深い罪の意識のなかで、こんどは当然自分が殺される番だと思っている。そんな兄に対して、神は護りのしるしをつけたのだった。カインは神によって護られ、エデンの東に住むことができるようになったのである。弟を妬み、殺しまでしてしまったカインに、神はやり直す機会を与えた。カインは生き直しながら、繰り返し自問したことだろう。なぜ、わたしはアベルを殺してしまったのか。なぜ、わたしはアベルを妬んだのか。彼はもはや「なぜ、神はわたしではなくアベルを選んだのか」とは決して問わなかっただろう。その後の長い人生のなかで、自分ではなく他の誰かが選ばれることなど、いくらでも体験しただろうから。むしろ彼はそのたびに、弟を殺してしまったことを想いだしては後悔しただろう。
どうしても自分を他人と比べることがやめられない人。一方で、肩肘張って「わたしは他人の目なんか一切気にしません。人は人。自分は自分ですから」と言い張る人。後者もそこまで言うからには、やはりそう言わなければならない程度には、他人の目や生き方が気になって仕方がないのかもしれない。かく言うわたし自身も、隣の芝生はゴールデン。ただ青いどころではない。黄金色に輝いて見えることしばしばである。まあいいではないか。わたしには、神が「他人との比較をやめろ」と無理難題を言っているようには、どうも思えないのだ。カインはアベルを妬んで、殺しまでしてしまった。もしも妬むことが赦されざる大罪なら、妬むどころか殺人まで犯したカインの命はない。彼は天罰として、これ以上ない残酷な死を迎えたことだろう。だが、そうはならなかった。人類史上最初の殺人者カインに対して、神は生き直す道を備えたのである。
他人を羨み、妬む。その行為はつねに恥ずべきこととして語られ、「人は人、自分は自分」の境地こそが美徳であるとされてきた。たしかに、嫉妬に煩悶することはお世辞にも格好良いとは言えないし、その苦しみにおいて「幸福ですか?」と問われて「ええ、幸せです」とは即答できないかもしれない。いずれにしても、わたしたちは他人を妬み、意識し、場合によってはその羨ましい他人を模倣さえする。なぜあの人のほうがわたしより結果を出せたのか。一切分からない。一切分からないからこそ悔しいし妬ましい。だが、そんなあなたにカインが語りかけるのだ。「おつかれさま。おれもそうだったんだよ」。カインとともに藻掻きながら、エデンの東を開拓してみるのも悪くはないかもしれない。
文:沼田和也